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イングランドの歴史

古代のイングランド

ケルト人がイングランドに流入してきたのは紀元前5世紀頃と見られている。ケルト人は鉄器と共にヨーロッパにやって来ており、この遺物を調査することによって彼らがいつ頃グレートブリテン島にやって来たかが判る。しかしそれ以前にイングランドにも石器時代の存在は確認されており、ストーンヘンジなどの巨石による遺跡も残されている。これを建設した民族がどのような民族であったかはよく分かっていない。

紀元前55年ローマのユリウス・カエサルが侵入、43年にはローマ皇帝クラウディウスによってグレートブリテン島の大部分が占領された。ただし、スコットランド、アイルランド地域にはローマの支配は及ばず、この地域のケルト人が度々イングランドに侵入してきたため、ローマ人によって現在のイングランドとスコットランドの境界付近に長城が建設された。ローマはこの地域をブリタニアと呼んだ。これが現在のブリテン島の起源である。またブリタニア支配の拠点としてロンディニウムを建設した。これが現在のロンドンの起源となっている。又ローマ人は在地のケルト人をブリトン人と呼んだ。

5世紀になるとゲルマン人の侵入が始まりローマ帝国に混乱が広まった。ローマはブリタニアでの植民をあきらめて大陸へと引き返した。449年にアングロ・サクソン人がグレートブリテン島に侵入をはじめ、元々住んでいたケルト系住人はアングロ・サクソン人に征服され同化し、一部はコーンウォール、ウェールズ、スコットランドに押し出される形になった。ただしアングロ・サクソン系諸王国が形成されるまでのブリタニアには歴史記録が乏しく、正確なことはあまり分かっていない。

百年戦争

フランスでカペー朝が断絶し、ヴァロワ家からフィリップ8世が即位すると、1339年イングランド王エドワード3世がこれに異議を申し立てフランスの王位継承権を主張してフランスに侵入を開始した。これが百年戦争の始まりである。

開戦当初はエドワード黒太子の活躍もあって、フランスの半分以上を占領し、イングランドが優位にたった。ヘンリー6世の時代には一時期イングランドとフランスの統一王朝が成立する。その後フランス王シャルル7世とジャンヌ・ダルクによる巻き返しによってイングランドは敗退をはじめ、1453年にはイングランドが占領していたボルドーが陥落、イングランドはカレーを除く全ての大陸の領土を喪失した。

薔薇戦争

フランスに対して王位継承権を主張したプランタジネット家であったがエドワード3世の孫 リチャード2世が廃位させられると断絶、王位はランカスター家に渡る。この後1455年からイングランドはランカスター家とヨーク家が争う内戦状態となった。これを薔薇戦争と呼ぶ。

バラ戦争は最終的にランカスター家の支流にあたるヘンリー・テューダーがエドワード4世の娘でヨーク家のエリザベスと結婚して、即位し、テューダー朝を起こす1485年まで継続する。

百年戦争からバラ戦争を通してまでのこの期間の間に、イングランドではペストが流行し、農奴反乱であるワット・タイラーの乱が起こるなど社会は混乱を極めた。しかしその間にも農奴制は崩壊の方向に向かい、封建制は完全に崩れ去った。封建制の崩壊は騎士と貴族の社会の破壊を意味しており、この後のテューダー朝による絶対王政の基礎が形作られた期間でもある。また、この時期に良質の羊毛生産に支えられた毛織物工業が発達してハンザ同盟との競合の少ない低地地方との交易を通じて典型的な農業国からの脱出を徐々に図っていくことになる。

英国国教会の成立

イングランドにおける絶対王政の最大の成果はイングランド国教会を成立させたことである。16世紀に入るとヨーロッパでは宗教改革の動きが活発になった。それら大陸におけるマルティン・ルターやジャン・カルヴァンの例を見ても判る通り、純粋に宗教的な理由から出発しているが、イングランドにおける宗教改革はヘンリー7世の次の王であるヘンリー8世の離婚問題と言う、全く非宗教的な理由から出発しているところに特徴がある。

ヘンリー8世の后はアラゴン王国国王フェルナンド2世とカスティーリャ王国女王のイサベル1世の娘キャサリンであったが、キャサリンは男子の後継者を望むヘンリーに対して女子1人のみを生んだだけであった。ヘンリーは子の産めないキャサリンと離婚し、事実婚の関係にあったアン・ブーリンとの結婚を望んだ。カトリック教会においては離婚は認められないが、「そもそもその結婚が無効であった」ということをローマ教皇に認めてもらうという抜け道が存在しており、王族に関しては少なからずその名目で離婚がおこなわれていた。ヘンリーもこの手法を用いたが、キャサリンの甥にあたるカール5世が教皇クレメンス7世を圧迫したため、教皇はこれを認めなかった。

これに怒ったヘンリーはイングランドにおける教会の首位権はローマ教皇ではなくイングランド王にあるとする国王至上法を発布し、これに反対するものを次々に処刑した。この時処刑された者の中にトマス・モアがいる。こうしてキャサリンとの離婚を成立させたヘンリーはアン・ブーリンと再婚。その後も次々と后との離婚(時には処刑)と再婚を繰り返す。ヘンリーには6人の后がいた。

ヘンリーとしては王妃との離婚が成立すればよかっただけで、典礼の様式などはカトリックの物そのままであった。その後ヘンリーの子となるエドワード6世の時代に祈祷書の制定が行われ、カルヴァン派の様式が取り入れられ始めた。

ただしイングランドではこの後も国教会とカトリックの間で揺れ動き、エドワードの後に女王となったキャサリン・オブ・アラゴンの娘メアリー1世はイングランドにおけるカトリックの復権を企てた。これに対しての反発はかなり根強いものがあり、彼女はカトリックの復権に反対するものを悉く処刑したため「ブラッディー・メアリー」とあだ名された。イングランドにおいて最終的に国教会の優位が確定されるのはメアリーの後を継いだ妹でアン・ブーリンの娘である、エリザベス1世によって国王至上法が再発布され、重ねて礼拝統一法が制定された後のことになる。

エリザベス朝

エリザベスはイングランドにおける絶対王政の頂点を極めた。エリザベスによって統治されたこの時代をエリザベス朝と呼ぶ。エリザベスは当時、無敵艦隊を率いて世界各国に植民地を持ちヨーロッパの強国となっていたスペイン・ハプスブルグ家に挑戦をはじめた。

エリザベスはネーデルラントの北部7州が、スペインの支配に対して起こした八十年戦争で独立を支持し、援助を行った。時のスペイン国王フェリペ2世はこれに対してイングランド攻略を目指して無敵艦隊を送ったが1588年のアルマダの海戦において私掠船を中心としたイングランド海軍に大敗。

スペインの海軍力はこの後大幅に低下し、逆にイングランドの海軍力はこの後イギリス帝国を維持するイギリス海軍に発展するまで上昇した。当時ヨーロッパの最強国の一つであった、スペインを軍事的に打ち負かしたことで、イングランドの国際的地位は高まって行くことになる。

エリザベスはイングランド王位を持つ自分の立場を利用される事(つまり外国に干渉される事)を嫌い生涯独身を通した。そのためエリザベスには子はおらずテューダー朝はエリザベスで終わりとなる。その後継にはスコットランド王であったステュアート家のジェームズ6世が指名された。

グレートブリテン王国

1707年の女王アンの治世の時に、それまでイングランドとスコットランドの同君連合という関係を改めて、両国の議会を統一した連合国家となった。これがグレートブリテン王国の誕生である。

参考文献:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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